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藤の屋文具店

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第一章 未知の深海へ



【神へ】

第一章

未知の深淵へ


128名の乗組員を乗せた最新鋭艦が太西洋を航行している。

原子崩壊によるエネルギーを推進力に変え、海水から酸素や水を
取り出す事によって長期間の潜行航行に耐える原子力潜水艦は、人
類の英知の結晶である。全長85メートル、水中速力38ノット以
上を誇るアメリカ海軍の最新鋭艦は、深深度における作戦能力のテ
ストを繰り返していた。

「機関停止、自動懸垂に切り替え!」
「機関停止アイ!」
「深度280、沈降停止、機関停止しました」

1万5000馬力の小型加圧軽水炉は、制御棒を押し込まれて反
応を停止した。2基の蒸気タービンがやや遅れて停止し、艦内は静
寂に包まれた。耐圧船殻の向こうには、1平方センチ当たり30キ
ログラムの水圧が牙を剥いている。しかし、この冷たく深い世界で
も無数の命が活動しているのだ。ひかり届かぬ漆黒の闇には、まだ
われら人類のあずかり知らぬ生命達が、ひっそりと息づいているの
である。

「これより深深度潜行を行う、各自持ち場につけ!」
「機関始動!」
「機関、始動します」

無数の制御棒が静かに抜き出され、核反応が再開される。目に見
えぬ中性子が原子を砕き、質量が熱エネルギーへと存在を変えるの
だ。始動時のみ、加圧膨張した一次冷却水はフィルターでろ過され
て、その一部を海水中に放出する。
やがて、ごうごうという大音響とともに、2基の蒸気タービンが
力強く動き出す。原子力エンジンの弱点は、この放射能ダストのリ
ークと騒音である。

「メインタンク注水、ダウントリム20!」
「メインタンク注水します」
「ダウントリム20アイ!」
「機関微速!」
「機関微速アイ!」
「潜行開始!」
「深度300・・・・310・・・・・320・・・・」

128名の乗組員を乗せた鋼鉄のタンクは、人類未踏の暗黒の海
底に向かって、静かにその深度を増して行った。ごうごうと響くタ
ービンノイズとときおり響くソナーの探信音、潜水艦乗りが海軍の
エリートと呼ばれるゆえんである。
巨大な水圧はどんな些細なミスをも許してはくれない。いったん
事故が起これば救出は困難である。水上艦ならば笑って済ませられ
るミスが、潜水艦の中ではそのまま死に直結する。冷静に任務を遂
行する男達の涼しい顔の下には、恐怖に悶え狂う動物としての本能
を必死で抑え込む鉄の意志が戦っているのである。

「深度400!」
「機関停止、トリムもどせ」
「深度410、沈降停止しました」
「トリムゼロ、アイ」
「ソナー、テスト!」

加圧されて密度の高くなった海水に向けて、指向性の強い高周波
音が放たれる。障害物に当たった反射波を解析することにより、周
囲を「観る」装置である。水中を伝わる音は解析され、ブラウン管
の上にいくつかのパターンを浮かび上がらせた。

「深度320に変音層、システム、オールグリーン!」
「付近に障害物はありません」
「よし、ただいまより運動性のテストをおこなう、機関始動!」
「機関、始動しました」
「針路保持、速力、最大戦速へ」
「出力上昇中!」
「速力、8ノット、・・・12、14、16・・・・・20」
「機関室異常なし」
「25・・26・・・・・・30・・・・・・31・・」
「機関、最大出力」
「速力38ノット、サチュレートしました」
「針路、2ー2ー0へ変更、面舵微舵!」
「針路変更アイ、ステアリングシステム異常なし!」

艦は深度410メートルの海中を、盛大な音を立てて突進してい
った。原子崩壊のエネルギーは加圧された冷却水を蒸気に変え、巨
大なタービンを動かしてスクリゥを回す。取水口から取り込まれた
海水は、熱交換器を介して機関を冷却する。有り余る豊富な電力は
海水から真水や酸素を取り出し、いつまでも浮上せずに航行する事
が可能である。原子力潜水艦は、それ自体が独立したエメルギー循
環を持っているのだ。
やがて、所定のテストを終えた艦は、いよいよ最後のテストに入
った。アイドリング中のエンジンは、わずかな振動だけがその存在
を知らせている。

「これより耐圧テストに入る、各自異音に注意!」

艦内の全員に緊張が走った。いよいよ、今回のもっとも危険な任
務が始まったのだ。水圧は1平方センチあたり50キロ、ベッドの
上に1500トンの魚雷艇が逆立ちして立っているに等しい。

「ダウントリム5、機関微速!」
「ダウントリム5、アイ!」
「速力8ノット!」
「深度読み上げー!」
「アイサー! 415、420、430、440・・・480」
「耐圧外郭異常無し」
「510、525、540、560・・・・・」

そのとき、スピーカーがピッと鳴った。

「こちら機関室、冷却水温異常上昇!」

指令室に緊張が走った。全員の視線が艦長に注がれる。

「冷却ポンプ作動確認!」
「・・・冷却ポンプ異常無し・・熱交換器異常無し!」
「左舷後方に放射能反応!」
「なんだと!」
「放射線量、急激に上昇中!」
「・・・・あ、」
「どうした?」
「・・消えました、放射線反応が・・・消えました」
「冷却水温上昇中!」
「機関停止、補助動力に切り替え!」
「機関、停止します」

タービンの音が消え、艦をおおっていた低周波の振動が消えた。
恐ろしいほどの静寂があたりをおおう。
静寂を破って緊張した声が響く。

「熱交換器破損! 2次冷却水、1次回路に浸入します!」
「タンクブロゥ! 浮上する」
「・・・タンク、ブロウできません!」
「なんだと!」
「排水ポンプ、正常に作動、しかし排水できません!」

第二次大戦の修羅場をくぐり抜けてきた艦長は、さほどあわてた
気配もなく静かに命令を出した。

「艦尾注水、アップトリム20、前進微速!」
「アイアイサー、モーター始動します」
「深度600、590、580・・・・540」

艦は静かに上昇を始めた。モーターの静かな気配だけが静まり返
った艦内にこもる。誰も、ひとこともしゃべらずに、読み上げられ
る深度をじっと聞き入っている。操舵手がごくりと唾を飲む音が、
指令室にやけに大きく響いた。

「あっ!」
「どうしたっ!」
「艦外に強い放射能反応、す、すごい!」
「冷却水のリークじゃないのか?」
「違います、炉心部並の線量です・・危険量を越えて被爆中!」
「機関室、原子炉は作動可能か?」
「海水汚染以外は特に障害はありません」
「よし、機関始動、全速前進!」

再びタービンの力強い振動が艦を包む。スクリゥが水を掻き、艦
はすばらしい勢いで海面へ向かって速度を増していった。

「500、460、420、370、320・・・260・・・」
「前方に放射能反応多数!」
「な、なんだと!」

突然、艦内の照明が消えた。推進力がふっと消え、やがて艦は静
かに沈降を始めた。

「機関室に浸水!」
「炉心に異常発生、緊急停止装置作動しました」
「メインタンクに海水浸入、ブロウできません!」
「沈降中、浮力が得られません!」
「艦首沈降!」
「艦首ブロゥかけろ!」
「ブロゥできません!!」
「深度270、280、285、290・・320・・」

オレンジ色の非常灯に、全員の顔が照らされる。パニックになら
ないのは彼らの受けた訓練のたまものである。

「・・・発射管室・・・」
「アイサー!」
「魚雷を前方海底へ向けて発射しろ、4本だ!」
「・・1番から4番、魚雷装展します」
「データ入力、方位0ー0ーマイナス10、距離、無制限!」
「・・・・・発射準備よし」
「発射!」
「・・発射しました・・・」

ずんというわずかな衝撃とともに4本の魚雷が海底へ向けて航走
する。やがて魚雷は、前方800メートル、深度580メートルの
水中で、水圧に耐えきれずに圧搾爆発した。衝撃波が艦を下方から
襲う。艦首が煽られて海面を向いた。

「アップトリムを得ました」
「よし、動力切り替え、全速前進!」

バッテリーによる駆動に切り替えられたモーターは、静かに艦を
上昇させていった。全員の顔に安心した表情が浮かぶ。

「浮上と同時に脱出する、総員退艦準備!」

指令室にはほっとした空気が流れた。操舵手が独り言のように呟
く。

「敵の新兵器でしょうか?」

だが、彼はそんなことが有り得ないのを知っていた。特殊合金製
の冷却水管を短時間に腐食させるような薬品を、延々何海里にもわ
たってばらまくことなどできない。それに、あの「追いかけてくる
放射能反応」はいったい何だったんだろう? 彼は、子供の頃に読
んだ本に出てくる大蛸や深海の怪獣が、艦を掴んで引きずり込む様
子を想像して頭を振った。ばかな、今は原子力の時代だぞ・・

突然、浮上が止まった。艦は深度180の水中に一瞬停止し、徐
々に艦尾から沈降を再開した。

「機関室、どうした!」
「機関室、異常ありません、モーターは全速運転中!」

艦長の顔にはじめて動揺が見えた。

「ソナー手、スクリゥの音は聞こえるか?」
「・・・それが・・・キャビテーションノイズが突然消えました・
・・・水中で回転音だけが聞こえます・・」
「こちら機関室、負荷が下がってモーターがオーバーランします!」
「モーター停止!」
「モーター停止アイ!」

艦長は、自分達がすでに死人であることを理解した。浮力を失い
推進力をうばわれたちっぽけなタンクは、このまま2700メート
ルの海底へ引きずり込まれて、ロードローラーに巻き込まれた小猫
よりももっとぺっしゃんこにされるのだ。潜水艦乗りにはもっとも
ふさわしい死に方かもしれないな、と思った時、笑いだしたい衝動
にかられた。彼は、自分の心が狂気へと逃避しようとしているのを
悟って、自分の職務をもういちど暗唱しはじめた。
キャビンのなかには緊迫した空気が張りつめていた。全員が自分
の計器を見つめていたが、心は何も見ていなかった。艦長の言葉を
待つように、その苦しい沈黙はいつまでも続いた。
ソナー室では、ベテランの男がデータをテープに落としていた。
テスト開始時からの音響データをテープにダビングし、耐水製のビ
ニィルパックに入れ、慎重に空気を追い出すと封をした。深度はま
だ浅い、彼はそれを円筒形の標識ブイに押し込むと、静かな通路を
発射管室にむかって歩きだした。
全員が、自分の仕事に向かった。聴音手はレシーバーに耳を澄ま
せ、操舵手は潜舵を押しつけ、機関室では何度もシャフトをチェッ
クした。発射管室では重量のあるものを次々に放出した。
しかし、何も変わらなかった。ただ、深度計の表示だけが、彼ら
の寿命を刻み続けて行った。
艦内の伝声管からは、どこからともなく歌声が流れてきた。
アメリカ海軍の歌は、何度も何度も繰り返された。
迫りくる水圧に対抗するように、歌声はだんだん大きくなってい
った。
プエルトリコも黒人も、イタリア系もドイツ系も、近くの者と肩
を組みながら歌った。

そして彼らは、世界中の誰よりもアメリカ人になった。


深度710メートルで歌声は止まった。




「発見しました!」
深海調査船「ドルフィン」からの低周波通信がポセイドン号のス
ピーカーから流れる。フェイズ3の深海活動のために8気圧に高め
られた船内の音声は、変調されてドナルドダックを思わせる。
「映像を送ります」
耐圧ケースに納められた高性能カメラは、鋼鉄の残骸をデジタル
信号に変え、2400メートル上方の母船コンピューターに向かっ
てパルスを送り始める。
双胴の船体を持つ母船の、中央の広いミーティングブリッジのプ
ロジェクターには、もとはパーミット級潜水艦の一部であった捻れ
た鉄板がゆっくりと映し出され始めていた。
SSNに続く3桁の艦番号が映像に現れたとき、初老の提督は声
を漏らした。

「まちがいない、スレッシャー号だ・・・」

30年の時の流れは、すべてを思い出の彼方におしやってしまっ
たが、彼らはいまでもここに眠っているのだ。遠くを見つめて古い
友に思いを馳せる提督の耳に、小さな悲鳴が届いた。

「ドルフィンよりポセイドン!」
「どうした?」
「原子炉格納容器は破損しています」
「被爆するぞ、撤退しろ!」
「・・・現在、放射能反応無し!」
「ばかな、まだ半減期すら経ってはいないのに・・」
「・・報告! 炉心部がありません!」

きつねにつままれたようにディスプレイを見つめる一同の前に現
れたのは、融けたように開いた裂け目から覗く、主を失った原子炉
格納容器の中のうつろな闇であった・・・・。


つづく




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